意訳
とるに足らないこの私を、阿弥陀様はわが愛しの子であると思慮され、わが名をとなえるお前さんを、たがいなく我が膝もとに迎えるぞと、力強く呼びかけて、この私をお待ち下さっている。
ああ、もったいなくも有り難いことよ、と信じて毫(すこ)しも疑わず、ためらうことなく南無阿弥陀仏とみ名をとなえる。その一声ごとに、阿弥陀様の広大にして慈悲ふかい、ふところに抱きとられると確信し、実感すべきである。
いかなる人であろうと、この確信を粉砕しようとして、言いよってきても、絶対にゆるぐことなく、折伏(しゃくぶく)に打ち破れないことが肝要である。 |
解説
人は信頼関係の上に結ばれ、しっかり手をつなぎあってなごむ。猜疑(さいぎ)は人を遠ざけて孤独の淋しさを味わう。信頼の希薄な社会には不安が募る。これが人の世の常である。
阿弥陀様は私の心の支えであり、よりどころであり、私を護り、導き、助けて膝もとにお迎え下さる。もっとも頼み甲斐のあるお方である。私にとって阿弥陀仏は、かけがえのない救い主である。だからこそ我が身と我が心を投げだしてお頼みし、おすがりして、何もかもまかせられるのである。このような信仰の世界は、信という心田のなかに育ち、養われ、花を咲かせ、実をみのらせる。
人は地位や学歴、財産という裃(かみしも)や鎧(よろい)を身につけた自分を、ほんとうの自分だと思いこんでいる。裃や鎧を身につけていたのでは窮屈で、不自由なばかりでなく、赤裸々な自分自身を見失う。この赤裸々な自分自身にこそ、阿弥陀様のお慈悲を存分に受け入れることができる。空の容器に水を入れるに等しい。
疑いや思慮分別といった裃や鎧を捨てると、自己過信の厚い覆(おおい)がとれて、阿弥陀仏のお慈悲に直接ふれ、そのふところに摂取されている自分自身に気づかされる。 |
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