意訳
わが身が過去世と現世において、世のため人様のために尽くした行いには、勝(すぐ)れた結果を招く能力、つまり功徳を具(そな)えています。その世俗の善根功徳を、阿弥陀さまのまします極楽浄土に迎えとられ、往生できるように役立てることを、回向と申します。そのようにして、わが身と人様の往生極楽を願う心を、発願心と申します。 |
解説
人様のお宅を訪ねる時には、先方のご主人なり、奥様の嗜好にあわせて手土産を用意するのが世の習いであり、先方に対する心遣いである。この心がけを忘れてはならない。
阿弥陀さまの在ます極楽浄土に往生を願うには、極楽浄土の主人公のみ心にかなった行い、つまり南無阿弥陀仏とみ名をとなえ、お念仏するのが、なによりの往生行である。法然上人は『選択集』の開巻劈頭(へきとう)に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」と示されているとおりである。
わが道は南無阿弥陀仏の一筋ぞ
阿弥陀ほとけにすがりまかせば (仁誉詠)
阿弥陀仏は愛しのわが子である私たちに向かって、「わが名をとなえよ 必ずわが許(もと)に迎えとるぞよ」と呼びかけ、み心の内をお示しになっている。だからこそ、お念仏以外の行いによって往生を願うのは心得違いであり、阿弥陀仏のみ心に背を向けることになる。
日ごろ世のため人のためにつくした行いに具わる徳が、いかに勝れていても世俗の行いである限り、そのままでは世俗をこえる往生のためには役立たない。だからこそその徳を、目的変更という手続き、つまり回向が必要なのである。世俗の行いはもともと往生を目的とした行いでないのだから、ただ過去に行った徳に限って回向して、往生を願うべきである。 |
|