意訳
四修とは、お念仏する人の身と心の上におのずから具(そな)わってくる四つの態度、振舞いのことで、作業(さごう)と名づけている。第一の恭敬修(くぎょうじゅ)は、救い主である阿弥陀さまに心からお護り、お導き、ご来迎を請(こ)い願いながら、身に礼拝をする姿の上に、おすがりする切なる念(おも)いが滲(にじみ)みでていること。第二の無余修(むよしゅ)は、専(もっぱ)ら阿弥陀さまのみ名をとなえて、他のすべての行をさしはさまないこと。第三の無間修(むけんじゅ)は、思いださずに忘れず、暇なく称名(しょうみょう)を継続すること。これらの三修を、いのちが果てるまで誓って中止しないことを長時修(じょうじしゅ)という。
この四修のなか、昼夜を問わず行住坐臥にたゆむことなく、「往生するぞ」という念いを堅持して、称名を継続する無間修は要(かなめ)である。だから他の三修は、この無間修の上におのずから具わってくる。 |
解説
一つのことを五年も、十年も継続し、右往左往しては駄目。ただ歩み続けよとは、学窓を巣立つ希望にみちた若人に贈る師のことばである。この餞別(せんべつ)のことばは、今の四修に通じる思いを禁じ得ない。
一つのことを、思いださずに忘れずに、ただひたすらに打ちこむとは無間修、しかも外のなにごとも、まじえないで貫きとおすとは無余修、ことが障碍(しょうげ)なく見事に完成するように神仏に祈願し、冥加(みょうが)を頂こうと心をこめて合掌、礼拝すれば恭敬修、五年十年といわずに、生涯にわたってこれらの三つを継続することは長時修に相当する。
何はともあれ、思いださずに忘れずに、意識しなくても呼吸ができるように、暇なくお念仏を申し続けて、何よりも大切な心を養い育て、往生の素懐(そかい)をとげたい。そうしないと、中味のない空洞人間になり果ててしまう。 |
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