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選擇本願念佛のこころ 最終回
「南無阿弥陀仏に託して」

念仏はこれほとけの本願なるゆへに 願力(がんりき)にすがりて往生することはやすし。されば詮(せん)ずるところは 極楽にあらずば生死をはなるべからず。念仏にあらずば極楽へむまるべからざる也。 『大胡太郎実秀へつかはす御返事』(『和語燈録』巻第三所収)
意訳
 南無阿弥陀仏とみ名をとなえるのは、阿弥陀様がただ流浪をかさねて生き死に流されるままに、往き方すらみとおしのない愛しのわが子を哀れみて、「わが名をとなえよ。たがいなくわが許(もと)に迎いとるぞ」、
と呼びかけられているからであります。その本願のみ心に応(こた)えて、すべてを投げすてて阿弥陀様に、
「何とぞ、よろしくお願いします」という切なるおもいを称名の声に託しているのですから、み許にお迎え下さるのです。そのことは、泣き声を耳にした母親が、かけよってわが子を抱きあげる無償の愛情に等しく、ごく自然なはこび、なりゆきなのです。
 そのようでありますから、結局、生き死になどの憂い悩みのない阿弥陀様のみ許でなければ、憂い悩みから離れられません。南無阿弥陀仏とみ名をとなえるのでなければ、阿弥陀様のみ許にお迎え頂けないのです。
解説
 人は言葉の交換をくりかえしながら、琴線にふれて心を開き、親密の度を深めて信頼関係を結びます。言葉は彼此の意志を疎通させる重要な役割を担っているのです。私たちは阿弥陀様の呼びかけに応えるために、阿弥陀様に頼りすがる態度と、何卒(なにとぞ)私をみ許にお迎え下さいという意志を、南無阿弥陀仏の一声一声に託するべきであります。
 ともかく、仏と凡とのいのちが振動しあうのがお念仏であり、それでこそ「得たる心地」に生かされて生きる悦びが得られるのです。

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