意訳
(たとえ、一生涯にわたって罪を造りに造り、反省懺悔(さんげ)する心のない人であっても、命終の時を迎え、善知識の教えにしたがって)、ただひたすらに声をたやさず南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、み名を十声となえるならば、その一声一声ごとに、これからさき八十億劫という長いながい間にわたって、生き死にをくりかえし、流浪をかさねる罪は、阿弥陀仏のみ許(もと)に迎えられて消え失せると、(観無量寿経下品下生−げぼんげしょう−の段に)説かれている。 |
解説
一生涯にわたって造りに造った罪が、南無阿弥陀仏ととなえる一声一声ごとに滅するということは、到底信じられないとは、世の人の常のならわしである。それは因果応報の道理にてらし考えるならば、当然の判断というべきであろう。
この法語には、積みかさねられた罪が消えてなくなるとは、説かれていない。むしろ南無阿弥陀仏とみ名をとなえるならばそれ以降、 それからさき未来にわたって造るであろう罪を造らずに済むというのである。これほどめでたいことはない。たとえ、積もりにつもった罪が消え失せたとしても、再び罪を造るようでは決してめでたくはない。
過去に行なった行ない、今現に行なっている行ないが、未来に影響しないということは、み名をとなえることによって、因果応報のきずなを断ち切るからである。阿弥陀仏の名号は、万徳の帰するところといわれるように、阿弥陀仏に具わるさとり(自証=ないしょう)とすくい(外用=げゆう)の功徳を、すべてそのまま具えている。その名号はとなえる人の内に、偉大なはたらきをくりひろげるのである。まことに思量分判をこえて不可思議という外ない。お念仏を申すことはこのように、私の過去現在の行ないのきずなを断ち切って、阿弥陀仏の聖意にかなった未来を創造するといってよい。 |
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