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選擇本願念佛のこころ(9)
「すがりまかせる」

南無阿弥陀仏といふは 別したる事には思べからず。
阿弥陀ほとけ 我をたすけ給へといふことばと心得て 心には阿弥陀ほとけ たすけ給へとおもひて
口には南無阿弥陀仏と唱るを 三心具足の名号と申なり『常に仰られけるお詞』
(『法然上人行状絵図』巻第二十一第一段所収)
意訳
南無阿弥陀仏というのは、六字の名号を解釈して詮議をかさね、論議を戦わすことではない。ただ私を、護り導き助け給えということばである。だから、この至らない愚かな、まともに一人歩きもおぼつかないこの私を、何としてでも護り導き助けたまえ、という全身にみなぎる切なる願いを、救い主阿弥陀仏にすがり、頼みまかせるとき、自ら口をついて南無阿弥陀仏と声になって出てくる。このようにお名号をおとなえすることを、安心起行具足の念仏という。
解説
せっぱ詰まって人様に、容易でないことを是非かなえて頂きたいと頼みこむとき、対座している相手のお方に、何んとしてでも頼みごとを聞き入れて下さいと口にしながら、ねじよるように近づいて、相手の膝を両手でゆさぶりながら、もっぱら懇願に懇願をかさねて快諾をうながす。南無阿弥陀仏とお念仏をとなえるときも、そうした気迫が必要である。宗祖上人は常に、「称名の時に心に思べきやうは 人の膝などをひきはたらかしてや たすけ給へと云定なるべし」と、仰られている。
こうしたお念仏には、どん底に落ちこんで、どうしようもない私である、という自覚、何んとしてでも、この現状をとびこえようとする願望、頼り甲斐のあるお方を信じきって、すがりまかせるという三点が噛みあっている。欲の泥沼に溺れたり、怒り腹だちの炎に焼かれたり、ものの道理を踏みはずしてつまずき、ころんだりの日暮らしを繰りかえし、到底一人歩きのできない私という実感が、阿弥陀仏に向かって、何卒この私を護り導き、助け給えという切なる願いをこめて、すがり頼むとき、堰を切って南無阿弥陀仏と声に出る。

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