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平家物語第1号(2)

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第壱號

成立:建仁、建保〜承久年間/内容:天承元年3月〜建久2年
構成:迦陵頻伽/絵=塩森恵子

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす

平大納言時忠卿、暴言事件
まるで紅衛兵!少年密偵、都を闊歩する事態!

「此一門にあらざむ人は、皆人非人なるべし」
時忠卿の暴言は、しかし暴言として批判されることなく、むしろ人はみな平家の縁者になろうとつとめた。
また14〜16歳の子供を集め平家の批判をする者があれば密告し、その家へおしかけ乱入し家財道具を没収、その人物を逮捕した。そのさま、まるで中国文化革命時の紅衛兵を思わせるものであった。

一門、栄華、栄達の道

清盛ひとりが栄華を極めたわけではなく、その一門はともにみな繁栄した。

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▲三男知盛、三位中将
嫡孫維盛、四位少将

嫡子重盛、内大臣・左大将。
次男宗盛、中納言・右大将。
三男知盛、三位中将。
嫡孫維盛、四位少将。

総じて一門の公卿は16人、殿上人は30余人、諸国の受領や衛府、諸官省の役人はあわせて60余人に達した。官界には平家を除いて人がいないようなありさまとなった。

暴走族、資盛の道交法違反!?
清盛すかさずリベンジに出る

小松殿(重盛)の次男、新三位中将資盛卿(13歳)は仲間と鷹狩りを終え、六波羅に馬で帰ってきたが内裏に入る摂政、藤原基房の行列と衝突。資盛たちが礼儀知らずにかけ破って通ろうとしたので、入道相国の孫とは知らず、あるいはわざと知らないふりをして、資盛当人をはじめ、二十歳にならない若者たちを馬から引き落とし、さんざんな目に合わせるという事件が勃発した。
事件を聞いた清盛は烈火のごとく怒ったが、重盛は自分の子の非礼こそかえっていけないのだ、と論していったんことなきを得た。しかし、清盛は直属300余騎に命じ、藤原の行列を襲い、前駆、随身の髻(もとどり)をみな切り放つという復讐に出た。
摂関家がこのような恥辱を受けたのは前代未聞。これこそ平家の悪行のはじめと都では囁かれている。

男子は官界の要職
女子は権威ある家柄に嫁す

清盛には男子のほかに八人の娘があり、みなとりどりに幸福な生活を送っている。
一人は8歳にして中納言成範卿と婚約、北の方になるはずだったが、平治の乱以後の事情の変化で、花山院の左大臣殿の妻となり多くの男子を生んだ。
一人は后にお立ちになった。
皇子がご誕生になって、皇太子に立たれ、即位されたので、院号をいただいて建礼門殿と申した。
すなわち高倉天皇の中宮となった平徳子である。

ただ一向に南無阿弥陀仏
法然上人、浄土宗を開く

この春、かねてより注目されていた法然上人(43歳)がみずからの立場をはじめて浄土宗と名づけ、ただ一向に南無阿弥陀仏とお念仏することこそが、広大無辺の阿弥陀如来の本願に乗じて、極楽往生を可能にする道である、という、専修念仏、他力本願の、まさに画期的というべき教えを説き始めた。

庵を訪れる人々は老若男女、武士や庶民まで広範囲の圧倒的支持を受け、連日ひきもきらぬ状態となり、念仏の輪が幾重にも拡がり、いつ終わるとも知れぬ様相を呈している。

この「平家物語」は(財)報恩明照会のご協力により(財)報恩明照会発行の「法然」(第2号)に掲載された「平家物語」をホームページ化したものであります。