

成立:建仁、建保〜承久年間/内容:天承元年3月〜建久2年
構成:迦陵頻伽/絵=塩森恵子
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![]() ▲祇王 |
![]() 祇王、祇女といえば都で評判の高い白拍子の姉妹である。2人の母の名はとぢ。この一家に途方もない幸運が舞い込んだ。姉のほうの祇王を清盛が寵愛するところとなったのである。母親には立派な家が与えられ妹もまた都の人々の人気を博した。
抑我朝の白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前とて、これらが舞ひだしたりけることなり。 京の白拍子たちの間では「祇」の一字を自分の名前に付けることが流行ったほどだという。 その祇王が出家してしまったという。その間の事情を整理すると、寵愛を受けてより3年。都にまた人気の高い白拍子の名手がひとり現れた。加賀の出身で名を仏(ほとけ)といった。 |
この仏御前。あるとき清盛の邸に参上。最初は売り込みに来ただけでも怒った清盛だったが、祇王がそれをとりなし、舞や歌は見ず聞かずともせめてご対面だけでも、と申し上げた。これがあだとなり、入道相国はすっかり仏に心を移し、召し抱えると言いだした。仏が祇王の手前、遠慮するとあっさり祇王をお払い箱にしてしまったというのである。
一転して逆境に陥った祇王は泣く泣く退出したが、今度は仏が辛い立場。元気なく暮らすのを清盛、理不尽にも祇王に使いを出し、仏を慰めに、舞をしに来い、と命令。人間の心情を無視した屈辱的な要請にも祇王は耐えた。
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仏も昔は凡夫なり我らも終には仏なりいづれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ
やがて権力者の横暴に抗して、死を決意した祇王だが、母親の説く仏のみ教えによって思いとどまり、尼となって嵯峨の奥に遁世し、一向専修の念仏にあけくれる生活に入る。
一方、仏御前もまたいたたまれず、祇王が襖に書き残した「いづれか秋にあはではつべき」の筆の跡を見て出奔。祇王を追って合流、一心に専ら弥陀の名号を念じ見事、往生の素懐を遂げた、ということである。
4月28日夜、樋口富小路から火災が発生。折からの激しい東南の風にのり、大車輪のような炎が京じゅうに飛び、凄まじい大火となった。このため大内裏の諸建造物もまた焼失。灰塵に帰した模様。
凶事勃発の前兆か!?あるいは!?
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