

成立:建仁、建保〜承久年間/内容:天承元年3月〜建久2年
構成:迦陵頻伽/絵=塩森恵子
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このほど天台座主明雲大僧正が朝廷の仏法行事に召される資格を取りあげられることとなったという。 加賀における領地問題にからむ訴訟事件がその発端だが、院の庁では大きくこれを取りあげ、御前会議では死罪、遠流の強硬論、あるいは微罪としての還俗等、意見続出。
しかし後白河院のご立腹激しく、死罪はようやく免れたものの流罪と決定した。
これを受けた山門では当初足並みの乱れはあったものの、これを不服として大挙して座主奪還闘争に打って出た。
結果、奪還に成功。
当初よりこの件に深く関与していた後白河院の寵臣、西光法師は、この勅命違反の暴挙に対しなおも厳重処分を奏上したが、以降、流罪はなしということになった。
山門騒動の約三週間後、5月29日深夜、西八条の平清盛邸に密かに多田蔵人行綱が訪れ、院に平家打倒の陰謀あり、と密告した事実が判明した。
入道相国、大いに驚き、凄まじく怒ったと平家関係筋は伝えている。
行綱の密告を受け、平氏一門は果断な行動力を示した。宗盛、知盛、重衡らは間髪を入れず武装、集結。
その夜のうちに6・7000騎の兵が参集。
結果、新大納言成親を皮切りに、近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官信房、新平判官資行らが続々逮捕、連行された。
なかでも後白河院の側近、権勢を誇った西光法師は拷問の末、自白。
口を裂かれ斬られて死亡の模様。

ことここに至って、かねてから平氏にたったひとりのインテリあり、と定評ある平重盛がようやく出馬。
上古の史実をひき、意を尽くして成親卿の助命を嘆願した。
ときにデモーニッシュな専制者となる入道相国も、この長男には滅法弱い。
「刑の疑わしきをば軽んぜよ、功の疑わしきを重んぜよ」
「死罪をおこなへば、海内に謀叛の輩たえず」
「積善の家に余慶あり、積悪の家に余殃とどまる」
の言葉に死罪は思いとどまることとなった。
このことが一度目。
しかし、この武人としての父は怒りを鎮められず、「院がたの奉公思ひきったり」と断言。すぐに結局、後白河法王その人を幽閉しようとすることとなる。
このときが二度目。
この「平家物語」は(財)報恩明照会のご協力により(財)報恩明照会発行の「法然」(第2号)に掲載された「平家物語」をホームページ化したものであります。