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平家物語 4号(1)

画像

第四號 源平

成立:建仁、建保〜承久年間/内容:天承元年3月〜建久2年
構成:迦陵頻伽/絵=久保周史

執に法然門下となっていく登場人物たち

如是我聞

平家物語全編に色濃く影を落とす無常観は、法然浄土教の哲理に深く根ざしている。
物語の謎の作者群はことごとく法然ゆかりの人々であり、そして登場人物は実際に執に法然門下となっていく。
虚しい戦いの後に開ける静かな残照。西方へ西方へ。人々は思いを一にして口称念仏の道を歩む。 最初は数人が声高らかに。そして続く人々が和して次第に低く、しかし大きなうねりとなり、やがて全国に拡がり、地を揺るがすごとき念仏の大合唱が、列島を満ち満ちていく。

式子内親王と法然上人はメル友だった!

聖如房あるいは承如房、あるいは正如房。伝によって表記はことなるがこの尼僧が式子内親王であることがこのたび判明した。
内親王は和歌の名手。新古今集や千載集にも幾首も採られ、生涯394首も詠んだことが知られる。
百人一首でも知られている高貴の婦人である。この内親王と法然上人の間で往復書簡が交わされている。

同じ仏の国にまいりあひて、蓮のうえにてこの世のいぶせさも、ともに過去の因縁をもかたり、たがひに、未来の化導をたすけむ事こそ、返す返すも詮にて候べきと、はじめより申しおき候しが……

つねに理性的な法然上人には珍しく、情感あふれる文章が各界から注目されている。

法然上人、ひとりの幼児を預かる

平氏都落ちに際し、師盛あるいは資盛の子、いずれにしても清盛の孫にあたるであろう幼児を密かに法然上人に預けにきた貴婦人があった。
この幼児が成長してのち、勢観房源智となる。法然上人の高弟のひとり、浄土念仏の教えの核心といわれる遺言「一枚起請文」を与えられた人物である。


平家の公達、一の谷に散る

元暦元年(1184)2月7日、源義経率いる源氏軍は、鵯越の坂落としの奇襲によって平氏を完膚なきまでに打ち破った。
平家方討ち死者多数。なかでも後世、キセルただ乗りといった違法乗車に名を残した薩摩守忠度の戦死はこう語られている。
源氏の兵に囲まれた忠度は西側に立つ兵士に「そこをあけてくれ、西に向かって念仏したい」 そして唐の善導大師の言葉であり法然上人が最も重視した偈文、
「光明辺照十方世界念仏衆生摂取不捨」
を称え、たからかにお念仏しながら絶命していった、と。
なお総大将宗盛と安徳天皇たちは命からがら讃岐国屋島に逃れ、三位中将重衡は捕虜となった。

一の谷発・悲話
嗚呼、美少年 敦盛の最期 聞こえしはこれか 青葉の笛

   
敦盛

十六歳の少年武者、平敦盛は、武蔵の猛将、熊谷次郎直実44歳に「敵に後ろを見せさせ給ふ者か、返させ給へ」と呼びかけられる。

一の谷の汀から、さっと海に打ち入った「黄覆輪に鞍置」いた颯爽たるその武者は声に振り返り勇敢にも「招かれて取て返す」

馬上の組み打ちからどっと落ちて組み伏してみれば、
「年、16・7ばかりなるが、薄化粧してかね黒なり。我子の小次郎が齢ほどにて、容顔誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覚えず」
はっきりいって既に源氏軍圧勝状態。直実から見て、この敵ひとり討ち取ったところで勝敗に関係するわけではない。
「いかなる人か名を名乗れ、扶け参らせん」
とさすがに直実がいえば、
「汝がためには好い敵ぞ、名乗らずとも頸を取て人に問へ」
と答えたという。
何とかして助けたいと思うけれど背後には土肥や梶原といった勇猛果敢な自軍の連中が迫ってきていて、どのみち助からない。それならば、いっそ自分の手で討とう。少年武者もまた「唯とうとう頸を取れ」と急かすのである。直実、泣く泣く頸を取ったのであった。
こうして死んだ少年武者の腰に錦の袋に入れた一管の笛があった。
そういえば、この暁、平家の軍内から管弦の音色がしたのは、これであったかと直実は思い当たる。
これがのちに浄瑠璃、謡曲そして小学唱歌にもなった、直実、敦盛出会いの場の実況である。

この「平家物語」は(財)報恩明照会のご協力により(財)報恩明照会発行の「法 然」(第5号)に掲載された「平家物語」をホームページ化したものであります。