

成立:建仁、建保〜承久年間/内容:天承元年3月〜建久2年
構成:迦陵頻伽

平家滅亡の1年後、建礼門院は洛北大原の寂光院に隠棲した。その建礼門院を後白河法皇がお忍びで訪れたという情報を本誌はキャッチした。「生きながら六道を見た」と彼女は語った。仏に供える躑躅の花のみが赤く日に染まっていたという。
壇の浦で我が子が海中に没するのを見ながらみずからは死ぬことを許されなかった彼女の気持ちは如何ばかりか。敗れた平氏の命運はただ哀れというべきである。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
頼朝と義経の不仲説が伝えられるなか後白河法皇は義経追討の院宣を、発した。
その一月前、後白河法皇は頼朝追討の院宣を発したばかりだが、関係者によれば、法皇はこれを、知らぬ存ぜぬで押し通すつもりであるという。頼朝はこうした法皇を「日本一の大天狗」と非難した。
「骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まるところか。はたまた先世の業因を感ずるか。悲しきかな」という切々たる「腰越状」も頼朝の心を動かさず、互いに意を通じることが不可能になった兄弟は戦うこととなるが、義経に利なく、愛妾静御前は吉野山で捕らえられ、武蔵坊弁慶ら僅かの手勢とともに、遠く奥州平泉に身を寄せることとなった。
みちのく支局発(富樫)
壇の浦で海から引き揚げられ捕らえられた総師、平宗盛は、源義経に護送され鎌倉へ。直接に助命嘆願するが聞き入れられず、近江篠原にて処刑。39歳であった。
同じく清盛の子、重衡については本誌前号に詳しいが、その2日後、木津河畔に斬られた。29歳の生涯であった。
最後の平氏嫡流はひとり維盛の子6代。彼は捕らえられたのち一時、僧文覚の口利きで許され、出家するが、結局、鎌倉で斬られることとなった。こうして平氏の血筋は絶たれることになったが、まさにそこから伝説が生まれていくことになる。
全国へ琵琶法師が旅立ち「平家物語」が語られはじめる。
そして、平家の落人を祖とするという伝説を持つ集落が東北から九州までの山間、離島に生まれその数、数えきれないこととなっていった。
法然上人は吉水にあって浄土宗を開き、ありとあらゆる人々のために念仏の教えを説かれていた。
法然上人は贈位や僧階など望まない高潔な、しかし一介の平僧にすぎなかったが皇室からは依頼が殺到。
後白河院、高倉天皇、後鳥羽院、上西門陰宣秋門院などへ戒師として説戒、授戒を行った。
長年の合戦のなかで無常を感じた源氏の武将たちも続々と法然門に入り、熱心な念仏行者となった。(本紙前号にて既報。熊谷直実など)
大盗賊の耳四郎、陰陽師の河波介などの個性派、異色の弟子も増え、念仏は全国に拡がっていった。
天台宗の碩学、顕真の招きによって、法然上人は大原勝林院に赴き、全宗派の上人たちに直接に浄土の講義をすることとなった。
世に言う大原談義である。
当日、南都北嶺の論客はみな集まり、天台真言律華厳等の碩学から、鋭い批判、質問が浴びせ掛けられたが、法然上人はこれをすべて論破し説得し「浄土の宗義、念仏の功徳、弥陀の本願」についてきわめて明晰に説かれたため、ついに質問者は言葉を失い、ただ上人の言葉に耳を傾け聞き入るだけとなった。
そして喜びの涙を流しながら、上人に帰依するものが多数出て、そのまま誰ひとり疑うことなく、二日三夜の不断念仏が行われた。
この「平家物語」は(財)報恩明照会のご協力により(財)報恩明照会発行の「法然」(第6号)に掲載された「平家物語」をホームページ化したものであります。