ご家庭・お子さまで


特集

  • 宗祖法然上人800年大遠忌
  • ともいきがたりTV
  • 浄土宗全書検索システム
  • 浄土宗携帯サイトのご案内

関係団体リンク

  • 浄土宗ネットワーク
  • 浄土宗出版
  • 浄土宗総合研究所
  • 浄土宗報恩明紹介
  • 浄土宗教学院
  • 全国浄土宗青年会
  • 浄土宗スカウト連合協議会
  • 法然上人をたたえる会
  • 浄土宗平和協会
  • その他 関係団体
  • その他 関係団体

平家物語 5号(2)

画像

第五號

成立:建仁、建保〜承久年間/内容:天承元年3月〜建久2年
構成:迦陵頻伽

義経、平泉に死すその年「選択集」撰述

奥州平泉に身を寄せた源義経は当主藤原泰衡に攻められ、北上川に注ぐ衣川で最期を遂げた。
義経はかつて数人の従者のみを連れて「羽黒山へ下る山伏」と名乗り、奥州の雄、藤原氏を頼って北陸路を落ちのびたが、鎌倉の兄頼朝の圧力、追及に、ついに自殺に追い込まれたのであった。

義経を裏切り攻めた藤原氏も結局は頼朝に滅ぼされ、奥州の栄華は灰塵に帰すところとなった。
この年、九条兼実の要請で、法然上人(66歳)は証空安楽真観などを助手として「選択本願念仏集」を撰述。浄土宗の奥義を指し示された。いわゆる鎌倉仏教の始まりといえる年である。

親鸞、夢告により法然門へ

前々年、鎌倉に頼朝が没し、長男頼家がその位を継いだ。しかし18歳でその実力なく北条時政ら13人の合議制となった。越後の城長茂が吉野で討伐され、東国諸国を大暴雨が襲い、鎌倉諸寺の党塔は倒壊する。
仏師快慶が東大寺の僧形八幡像を完成するといった、この年。
比叡山延暦寺の堂僧であった親鸞(29歳)は、京都烏丸通りの六角堂で百日参籠をしていた。
その95日目の暁、姿を現したのは聖徳太子であった。その夢告に従って、救いの道を示してくれるという法然上人のもとに赴き、百日通いつめて門弟となる許しを得たのであった。善人も悪人も後世への道はただひとつ、と説く法然上人の教えに感動した親鸞は、たとえ地獄の底であっても法然上人のいくところ従うべしと思い定め、ここに絶対他力の念仏者として第一歩を踏み出したのである、といえる。

日本文学史に残る一枚起請文

専修念仏に対する弾圧による配流を布教の好機とも捉え、高齢むしろ意気軒昂として四国へ赴いた法然上人は、さまざまな人々に出会い、地方にも直接に教えを広めた。なかでも、いままでの仏教がいわなかった「女人もまた平等に往生できる」という画期的な教えなど、被差別に苦しむ人々にも深く感銘を与えていった。のちに許されたが京都へ入ることができず、ようやく京都へ帰ったときには長旅の疲れが出て正月、病の床についた。
正月23日勢観房源智に「一枚起請文」を授け、同25日に往生された。
残された「一枚起請文」は仏教史のみならず日本文学史に残る「日本語で書かれたもっとも美しい文章」のひとつとして、広く世界に知れわたって異例に評価の高い名文とされた。

一枚起請文

唐土わが朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず、又学問をして、念の心を悟りて申す念仏にもあらず、ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく、往生するぞと思いとりて申すほかには、別の子細候わず、但し三心四修と申す事の候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもううちにこもり候なり、この外におくふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ本願にもれ候べし、念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

為証以両手印

浄土宗の安心起行この一紙に至極せり、源空が所存この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存を記し畢んぬ。

建暦二年正月二十三日大師在御判

ここに引用したものは黒谷金戒光明寺に伝わる一枚起請文に基づき、現在勤行式などに使用されているもの。新仮名遣いとして読みやすいようにした。

(編集部注)

この「平家物語」は(財)報恩明照会のご協力により(財)報恩明照会発行の「法 然」(第6号)に掲載された「平家物語」をホームページ化したものであります。