
本宗において、「清めの塩」をどのように取り扱うかについては、これまで必ずしも明解ではなかったように存じます。
科学が未発達であった時代の日本社会において、人が死ぬということは災厄の一つとして捉えられていました。伝染病で死んだ人を弔った人が同じ病気で死んだり、たまたま隣り合う家の人が続けて死ぬことの理由付けには、「災い」や「穢れ」と言う言葉を使うのが、一番都合がよかったのかもしれません。
そして、その災厄から逃れる必要がありました。そこで考え出された方法の一つが「清めの塩」という方法であったのです。
もともと「塩」には殺菌効果があるので、古くから食物の腐敗を防ぐために用いられていました。また、「敵に塩を送る」という言葉や、「梅干」「塩むすび」や「塩味○○」などの食べ物、別な例として飲食店の店先で「盛り塩」を目にすることもあるように、日本では大変身近なものでありました。
「清めの塩」という慣習は、この「塩」の作用に注目して始まったものと考えられ、「災い」や「穢れ」から、塩の殺菌作用を浄化作用として用いることにより「清め」て、自分は免れるという発想から生まれたようです。
しかしながら、今日では単なる迷信であり気休めであると言い切っても構わないでしょう。
浄土宗において、死は災いでも穢れでもありません。宗祖法然上人は、『百四十五箇条問答』の中で、死のけがれ、出産のけがれ、血のけがれに対して「仏教には忌みということはない」と、けがれという捉え方を否定しておられます。
すなわち、平生からお念仏をとなえていれば、阿弥陀さまのお導きにより極楽浄土に生まれ変われるのでありますから、畏れることはないということであります。
「畏れ」や「穢れ」の観念は、同和問題において重大な意味を持ちます。「穢れ」という考え方が即差別につながるものではありませんが、社会の制度として取り入れたのが部落問題の根源であると言えます。
なぜ差別が起こるかということを考える時、「清めの塩」もそうですが、他人より少しでも優位であろうとする、人間の本質的な衝動にその源があるのです。
自分の心の内側を見つめることは、差別をなくすために大切なことです。従って「清めの塩」は、単に慣習であると理解し、私たちお念仏を信じる者には不要な行為と考えましょう。
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