
法然上人の門弟。安楽房という。俗名中原師広。父は法然上人に帰依した少外記入道師秀。遵西は美声の人であったので、1192年(建久3)秋、後白河法皇御菩提の
安楽房は才能豊かな人だったようで、その達筆さからか『選択本願念仏集』を撰述するにあたり、当初選ばれて執筆の役に任じ、第1章より第3章私釈段の「能会瓦礫変成金」に至るまでを執筆していましたが、「私は人より字がうまいからこの任にあたれた」と喜んだのに対し、法然上人は、驕りの心がおこった、として第3章の途中からはその任を感西に代えてしまいました。
またのち『選択本願念仏集』を携えて鎌倉へ遊化しました。その講説を聞いた石川道弁が、ちょうど訴訟のため九州から鎌倉入りしていた金光房を誘って同門の衆に加え、金光房はその講を聞き、安楽房とともに上洛し、法然門下に入りました。
また、1206年(建永1)住蓮と同じく六時礼讃の美声により、鹿ケ谷において六時礼讃念仏を修したところ、帰依する人も多くいました。ときに後鳥羽上皇は熊野へ参向中で小御所の女房2人がこの会につらなり出家してしまい、上皇の逆鱗にふれてしまいました。
かねて専修念仏弾圧を劃していた南都の僧徒らは蜂起の好機を得、強訴し、ついに1207年(建永2)2月9日京都六条河原において斬罪となりました。
ときに六時礼讃の一節を唱え念仏して従容として往生を遂げました。のちにこの1件は法然の四国配流にまで波及しています。
(参考『諸家系図纂』『三長記』『愚管抄』6、『勅伝』8、33、『私聚百因縁集』8、『知恩伝』『高僧遺文録』『皇帝紀抄』『授手印決答見聞』下、三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』、同『浄土宗史の諸研究』。 浄土宗新聞平成12年11・12月号記載)