
字は了慧・望西楼・蓮華堂。諡号は広済和尚という。三條派の派祖。法然上人 ・弁長・良忠三代の伝記を作り円頓戒の精通者として有名。 相模国(神奈川県)鎌倉に宍戸常重の子として生まれる。1253年(建長5)比叡山に登って尊恵に師事、顕密諸宗の学問を修めた。 いつごろ浄土宗に転宗したのか明らかでないが、74年(文永2)には散在していた法然の語録を集めて『和語燈録』『漢語燈録』の編纂を行なっており、これ以前に転宗したことは事実。 集録された語録の中には疑問のものもあるが、現物の少ない現在では貴重であり、法然研究の上に残した功績は大きい。 道光は76年(建治2)上洛した良忠に師事、80年(弘安3)には『末代念仏授手印』を授けられ、学問の力量を認められた。 もともと道光は比叡山時代から博識の人であったが、ことに『法華経』に精通し、円頓戒の研究では有名であった。 77年(建治3)には洛陽華蔵寺で慈明から、79年(弘安2)には良忠から、84年(同7)には万寿禅院で覚空から、それぞれ円頓戒を相承している。 自身をえた道光は京都三條の悟真寺を中心として鎮西流正統の布教活動を続け『末代念仏授手印』と円頓戒の2つを伝授してとくに伏見天皇に円頓戒を授けたのを機に、貴族の間にその教えを広めた功績が認められ、御醍醐天皇から広済和尚の和尚号を賜わったという。 また84年(同7)には弁長の別伝を作り、87年(同10)良忠が入寂すると、すぐ恩師良忠の別伝を作ってその恩に報いている。 96年(永仁4)には『選択大綱鈔』、翌年には『無量寿経鈔』を著わした。この『無量寿経鈔』は慈心の要請によって書きあげ、完成ののちに慈心と然空が完治したという。 ということは、慈心・然空と並んで良忠門下三傑の一人として活躍し、互いに力を合せて鎮西流の団結を密にすると同時に、その基礎を固めた功績を評価しなければならない。 『選択集』に関する異流の解釈を歎き、『新扶選択報恩集』『扶選択正輪通義』を著わして宗義を顕揚したのは、そのあらわれといってよい。 このほかに『往生論註略鈔』『往生論註拾遺鈔』『往生拾因私記』『無量寿経大意』『菩薩戒疏見聞』『尊問愚答記』『伝通記料簡鈔』『知恩伝』など、多くの著述を残している。 このようにして道光の著述は多くの人びとに影響を与え、後継者の了忠もその学説を主張した。 それにより悟真寺は栄え、地名にちなんで三條流といわれた。血脈の上では、この後、浄忠・良禅・妙徳・妙実と相伝されているが、15世紀のなかばになると人材も乏しくなり、やがて木幡派と同様、関東から上洛して発揮する白旗派に合流していった。 それにしても浄土宗発展の上で、道光の功績は高く評価しなければならない。
(浄土宗大辞典より)