
1199-1287(正治1-弘安10)。浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを継いで専修念仏を弘め、多くの書を著わして浄土宗の教学を大成した。 主として関東に布教し、多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団発展への礎地を作った。
その後は鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。日蓮が政府に諫言し、諸宗を攻撃して自分の正統を主張したのに対し、理智光寺道教や極楽寺良観などとともに積極的に対抗し、日蓮を身延に入山させる結果を招いた。 こうして良忠の名声は不動となり、その学徳を慕って参集する弟子も多く、武士の間にも帰依者をもつようになった。72年(文永9)大病を患って、比叡山東塔極楽房で修行中の良暁を呼んで遺言状を与えたが、この噂を聞き、京都から然空と良空が下向して良忠の門に入り、ともに浄土宗の奥義を習得した。 やがて良忠の病気は快方に向い、然空と良空は上洛したが、良暁の帰洛は認めず、さらに学問を積ませ、公私にわたる後継者に定めた。75年(文永12)には悟真寺で『伝通記』15巻の大著を完成し、後世に残る数学の基礎を確立した。 76年(建治2)京都の弟子然空・良空らは、京都仏教界における浄土教学の乱れを嘆き、良忠の上洛を願って教界の統一をはかろうとし、良忠の上洛を要請した。鎌倉における基礎も確立した良忠は、弟子らの要請を入れて上洛、翌年然空に『末代念仏授手印』を授け、毘沙門堂阿弥の要請で『選択疑問答』を著わし、79年(弘安2)道光に円頓戒脈を授け、翌年には『末代念仏授手印』を授与し、82年(弘安5)『安楽集私記』を著わした。 在京11年、老齢の身をもって布教に、著述に超人的な活躍を続けたが、86年(弘安9)鎌倉に帰った。そして良暁に法然・弁長・良忠と三代相伝の袈裟と硯を与え、さらに浄土宗三代相伝の付法状を伝えて念仏の弘通を命じ、翌年には『伝通記』をはじめ、浄土宗の奥義のすべてを伝授し、重ねて良暁の正統性を意味づけ、87年7月6日、89歳で入寂した。 良忠の滅後、多くの門弟の中で、良暁・性心・良空・尊観・然空・道光の6人が主に活躍し、互いに教線の拡張に努め、自派の正統性を主張したところからやがて六派に分かれたが、かえって浄土宗の興隆には大きな貢献をなし、必然的に鎮西流が正統化され、法然・弁長・良忠と相伝する浄土宗の三代相承の系譜が確立した。その後、門下の六派の中の白旗派が主流となって現在に至っている。 著書は前記のほか、『往生要集義記』『観経疏略記』『往生論註記』『徹選択集鈔』『観念法門記』『看病用心抄』など多数。創建した寺陰開山と仰がれる寺院も多数。(7・6寂)
(浄土宗大辞典より)