
浄土真宗の開祖として知られているが、初名を範宴・
04年(元久1)延暦寺の専修念仏に対する非難を
承元元(建永2)(1207)年2月上旬、興福寺などの告訴によって、法然上人以下の流罪に際し、親鸞も越後国に流罪となって流される。、このころ居ること5年この間に非僧非俗の愚禿親鸞と称し、妻の恵信尼(1183-1268)と生活を共にしている。
建暦元(1211)年、帰洛を許されるが京都へは帰らず、関東の上野(群馬県)、下野(栃木県)・常陸(茨城県)・下総(千葉・茨城県)にかけて布教に向う。下妻(しもづま)稲田などに居住し、求道上の苦悶をしながらも念仏の布教をはかっている。24年(元仁1)稲田において『教行信証』六巻を著わしたといわれるが、全6巻成立の年時に関しては異説が多くまだ定説をみない。30年(寛喜2)には聖覚の著書『唯信鈔』を書写している。
その後2、3年して京都に帰り、60歳を過ぎたころ京都に帰り、五条西洞院に仮寓していたといわれる。帰洛後は『唯信鈔』および隆寛の著『自力他力事』などを書写し、これを関東の信者に送り、またみずからも『浄土和讃』『高僧和讃』『唯信鈔文意』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃』『入出二門偈』『一念多念文書』『正像末和讃』『浄土文類聚鈔』『尊号真像銘文』など多数の書を著わした。56-7年(康元12)には法然の語録集『西方指南鈔』を書いている。この間に関東の信者に多くの書状を送り、念仏の真意を解明してきたが、子の善鸞が東国にあって異議を立て、信者を惑わしたりしたため、これを義絶するという悲劇をも味わっている。
62年(弘長2)11月28日、90歳をもって入滅した。四男三女のうち末子の
(浄土宗大辞典・浄土宗新聞平成12年11・12月号記載より)