
常日頃、いつも、平生、絶え間がない、などという意味で、「ふだん着」とか「ふだん思っていること」などと使われる。また、「優柔不断」といって、ぐずぐずと決断力に乏しい状態をもさす。これらのふだんは、「不断」が正しく、「普段」は当て字である。
つまり、時間というものは、心臓と同じく、いついかなる時でも絶えず動いているものである。その動きは断絶することなく、永遠につづく。だから、不断は、断えない、常々、いつでもという意味になる。
有名な『平家物語』(大原御幸)の名句に「甍破れては霧不断の香を焚き、扉落ちては月常住の灯をかかぐ」とある。また毎日絶えず読む経を「不断経」、昼夜間断なく念仏相続するのを「不断念仏」といったりする。
一方、優柔不断のほうは、意志の力を自ら断つことのできない気弱さから来たもので、「時」を制止できないと同じく、「心」も容易に決断しかねることをいったものであろう。しかし、いつまでもうじうじしていたのでは好機を逸する場合もあるから、ここぞという時はいさぎよく決断のできるように、それこそ不断から訓練しておくのも大切ではなかろうか。
※これらは、「えっ、これが仏教語?ー日常生活の中の仏教語ー宝田正道著」から引用していますが、HP掲載用文章に変更しております。